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海士町後鳥羽院資料館

 

資料館 外観.jpg隠岐郡 海士町は、後鳥羽上皇(第82代天皇)がお住まいになったところです。
そこで海士町では、後鳥羽上皇のご活躍と島内でのお暮らしぶりを後世に伝えるべく、昭和53年に海士町後鳥羽院資料館(旧 民俗資料館)を開館しました。

開館は3月20日から11月20日まで。午前8時30分?午後5時。(但、旅行プランによって相談に応じます)

入館料は個人は300円、団体(15名)以上は250円となります。

住所 島根県隠岐郡海士町海士

電話・FAX 08514-2-1470


館内は、およそ次の4つのコーナーに別れています。

(1)後鳥羽上皇の慰霊に関わる資料



●後鳥羽上皇の隠岐での行在所 源福寺
 後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)、朝廷の権威の回復を目指し、政治的権力を手中に収めていた鎌倉幕府の北条氏を倒すべく京都より挙兵されました。
 しかしながら、鎌倉幕府の圧倒的な軍事力の前に、上皇の軍は敗れてしまします。
 新たに京都にも権力の拠点を設けた幕府は、朝廷並びに上皇軍の指導者を次々と処罰します。
 この際、後鳥羽上皇は隠岐の国に、土御門上皇は土佐の国(高知、後に阿波の国にうつる)に、順徳上皇は佐渡の国(佐渡ヶ島)におうつりいただくことが決定されます。
 後鳥羽天皇の隠岐の国での行在所とされたのが真言宗 源福寺です。
 江戸時代に入ると、源福寺の境内にある後鳥羽上皇の御遺骨の一部を納めた場所に廟(びょう/りっぱなお墓)が造られ、お弔いがされるようになったと伝えられています。
 なお、源福寺は明治初期のお寺と住民のトラブルなどに端を発する廃仏毀釈により、現在は隠岐神社をはさんで反対側の位置に移転しています。

大般若経.jpg

※展示品(1)は、天保4年(1833年)に水瀬家から奉納された「大般若経(だいはんにゃきょう)」を中心とした源福寺の所蔵品です


●飛鳥井少将雅賢(あすかいのまさかた)による御陵の整備
 後鳥羽上皇は、41歳から崩御される(お亡くなりになる)60歳までの約20年間、源福寺でお過ごしになりました。
 崩御の後、御遺体は火葬され、御遺骨の大部分は京都の三千院(京都市左京区)の裏手にある大原陵(おおはらのみささぎ)に納められております。
 また、御遺骨の一部は源福寺の境内にも納められましたが、江戸時代に入るまでは、ただ石が置いてあるだけの状態であったと伝えられています。
 宮中での事件に関与したとされ、慶長13年(1608年)に隠岐への流罪となった飛鳥井雅賢は、このありさまを見てひどく嘆き、私財を投じて廟(立派なお墓)を創建しました。その後、廟が痛むと松江藩がこれを修繕、江戸時代の末期に藩の財政がひっ迫すると、今度は源福寺を中心に海士の島民の手により祠(ほこら)が建てられました。この祠は後鳥羽院神社と呼ばれていたそうです。
 そして明治以降は、宮内省ができ、歴代天皇陵が整備されてゆくに合わせて、御陵に准ずる扱いがされるようになり、その名称を「御火葬塚(ごかそうづか)」としています。

源福寺隠岐山陵図.jpg

 

●旧庄屋家(村上家)が所有する工芸品
 古くから隠岐は日本側海路の要所でした。
 江戸時代には北前船も多く停泊し、その際には色々の工芸品ももたらされました。
 江戸時代、庄屋職とともに幕府から交付された免状により大型船を保有し、江戸後期には全国の長者番付にも名が上がるほどの財を成したともいわれています。
 明治になり宮内省が御火葬塚を定めると、島内の名家の一つであったことから、同省(現宮内庁)より管理を命じられました。
 以降、御火葬塚の守部(お墓の管理人)に任じられています。

庄屋家の工芸品.jpg 

 

(2)後鳥羽上皇のご活躍を伝える資料


 後鳥羽上皇は、「承久の乱」にまつわる様々な話が有名です。そのため、上皇の話となると乱の解説が中心になってしまい、お人柄、ご才能を広く語るという観点からのものは少ないともいえます。
 さて、後鳥羽上皇は、歴代の天皇(現在は百二十五代)の中でも、和歌については随一と称されています。京都に和歌の研究機関を設置し、古今の優れた和歌を集めた『新古今和歌集』の編纂を命じました。この作業では、最後は上皇ご自身がつぎきりをされていたと伝えられています。
 和歌に対する情熱は、この島でいよいよ高まり、『遠島百首』をはじめとして七百首近い和歌をお詠みになりました。
中でも
「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」 が有名です。
 隠岐の自然、そしてご自身の半生を乗り越え、自身の才能でこの地に文化の花を咲かせてみせる。との意気込みを込めたもの解されています。

皇族、著名書家による僅書.jpg

 ※展示品(2)の掛け軸は、上皇のご才能に近づきたいとの思いから、宮様、書家が謹書し、海士町に寄贈したものです。


(3)隠岐神社の宝物


 後鳥羽上皇を讃える隠岐神社は、皇紀2600年(昭和15年)の奉祝に向けて創建の計画が決定し、その前年の昭和14年に完成しました。
 これに合わせ、神宝の調製、奉納行事がありました。
 神宝の代表は、刀剣奉賛会により鍛えられた奉納刀です。皇室の菊の御紋の起源は、後鳥羽天皇の下で鍛えられた刀に刻まれた菊花紋であるといわれています。この刀は「菊御作(きくごさく)」の名で知られています。
 三種の神器にもある通り、刀は権威の象徴として扱われてきました。後鳥羽天皇は刀剣に興味をお示しになられ、当時の名匠を御所に呼び刀剣を鍛えさせたと伝わっております(番鍛冶)。
創建に際しては、後鳥羽天皇の権威を高めるべく、昭和の名匠によって新たに刀剣が鍛えられ、近衛文麿公を会長とする奉賛会より、刀剣が奉納されました。
また奉祝行事の中では、神前での奉納歌会があります。その際には、十三方の宮様をはじめ各界の代表より、和歌が奉納されました。この和歌は、献詠帖「さよちどり」としてまとめられています。
これらを隠岐神社のご協力の下、資料館の中心的な展示物としています。

隠岐神社奉納刀.jpg

 ※展示品(3)は、隠岐神社創建にあわせて奉納された奉納刀です。


(4)島内遺跡より出土した考古資料


現存する我が国最古の書物『古事記』(712年)には、国土が形成されてゆく様子がイザナギ・イザナミの夫婦の神による働きと記されています。(国生み神話)
神々から国造りを命じられた夫婦の神は、大きな矛をつかって混沌をかき回しました。その矛から垂れた塩が固まって、まず大きな八つの島ができたとされています。この島は、本州、淡路島、四国、九州、対馬、壱岐、佐渡島、そして隠岐です。
神話に記されるということは、さらに古い時代から国家の要所として、隠岐が認識されていたという証ともいえるでしょう。
それを裏付ける遺跡、古墳は、この海士町にも多くあり、特に良質とされた隠岐産の黒曜石をはじめ、銅剣(県立古代出雲歴史博物館に展示中)、鉄剣、各種の土器類が出土しています。

海士町出土玉.jpg

海士町出土弥生土器1.jpg

 ※展示品(4)は、町内出土のものです。