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隠岐神社は何の神さまをおまつりしていますか?
隠岐神社は第82代の天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんのう)をおまつりする神社です。



隠岐神社のご利益は何ですか?

後鳥羽天皇は、歴代天皇さまの中でも文武両道に秀でられ、日本の文化・伝統、芸能・芸術の興隆の先頭に立たれて、とても精力的なご活躍をされました。

隠岐神社は、海士町の人にとっては、町の総氏神さまともされます。また、後鳥羽天皇の才を讃え、それを授かるろうとする方からは、学業成就、縁結び、病気平癒、交通・旅行安全の神としても敬われています。





隠岐神社が創建されたのはどうしてですか?

明治以降、歴代天皇の中で特に秀でたご活躍をされた天皇を讃える神社が創建されていきます。

後鳥羽天皇をおまつりする神社としては、大阪に水無瀬神宮があります。もともと後鳥羽天皇の御殿があった場所で、御遺言によって神霊がおまつりされていました。そして明治になり、神宮の号が付されました。

昭和に入ると、昭和15年の紀元2600年のお祝いとして、島根県でも天皇さまをおまつりする神社を創建し、皇室と我が国の歴史を讃えることが計画されます。そこで、県内でも特に皇室とゆかりのある場所であり、また後鳥羽天皇が承久の乱の後にお住いとされた、隠岐郡の海士町が神社創建にふさわしい場所として選定されました。





後鳥羽天皇はどうして隠岐にお住いだったのですか?

後鳥羽天皇の御代は、武士の勢力が拡大してゆく時代でもありました。広く知られているのは、源氏の大将・源頼朝が鎌倉に政治・軍事の機能を集めた鎌倉幕府の成立です。

しかし、京都の御所も権力を有しており、そのため、京都と鎌倉では行政上の方針の違いなどがありました。特に顕著だったのは、当時の権力基盤でもあった貴族、武士の領地と税の問題です。後鳥羽天皇は、鎌倉幕府はあくまでも御所を支える立場にあることを説きますが、御所と幕府との溝は埋まりません。

そこで、後鳥羽天皇は鎌倉幕府追討の命令を発し、京都側と鎌倉側の戦いが始まります。これが承久の乱(1221年)です。この戦いは、鎌倉側の圧勝に終わり、後鳥羽天皇は政治の場からは退かれることとなります。

その後、後鳥羽天皇が京都より御移動されたのが、隠岐郡の海士町です。





後鳥羽天皇の御陵(お墓)はありますか?

隠岐神社のとなりに、後鳥羽天皇の御遺骨の一部を納めた「御火葬塚(ごかそうづか)」があります。

もともとは、後鳥羽天皇の隠岐でのお住まいであった、真言宗の源福寺(げんぷくじ)の境内でした。このお寺は、明治初期に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、別の場所への移転を余儀なくされますが、後鳥羽天皇の神霊をおまつりしたとされる祠(ほこら)は残されました。

その後、この祠より後鳥羽天皇の神霊が大阪の水無瀬神宮にうつされたことにより、祠は取り払われ、その調査が行われます。この際、祠の土台の部分から、後鳥羽天皇のものとされる御遺灰などが発見されたことにより、宮内省は御陵に准ずる扱いとします。

現在は廟(りっぱなお墓)が建てられています。





年間、何人ぐらいのお参りがありますか?

毎年、約2万人のお参りがあります。

団体旅行(JTB、クラブツーリズム、阪急など大手代理店の企画旅行)のほかに、文化、芸能、芸能や歴史に関心のある方が多くお参りされます。また、進学、就職、縁結び、病気平癒の特別のお願い事がある方も、遠方にもかかわらず参拝され、本殿の下より汲み上げた清めの水で身を清めた後、熱心にお参りされます。

御祈祷は混雑することが多く、予約制となっております。